42話・ではどうすれば「操られた」印象にならなかったのか?考えてみた
42話の拓海の感情が「作者に操られていたようにしか見えなかった」件について
じゃあどうしたら違和感なく主題を引き立てられただろう?
と自分なりに考えてみました。
当初は「そもそも拓海に憎悪を抱かせる筋立て自体に無理があったんじゃないか」
と思ったんですがー
いや、そういえば
▲これがありましたよね。
これはこれで生身の女の子4人が死にかけたってところに
作風自体の違和感はあった訳ですが、
ここで拓海の感情に前振りを仕込むことは出来ましたよね。
「コイツの戦う力を根こそぎ奪わなければゆいが死ぬかもしれない」
「とうさんも死にかけた」
「死」という単語を使わずとも
「危うく二度と目を覚まさない状態になるところだった」
「次こそはそうなるかもしれない」という
危機感や不安を煽る解説や描写が仕込んであったなら
拓海の「怒り」と「使命感」に憎悪が混じっても納得のいく展開に
なったんじゃないでしょうか。
要するに今回の違和感は、憎悪を抱くという表現に
視聴者を納得させるための必要なステップが足りなかったのだと思います。
ゆいを二度と危険な目に合わせないために、自分がゴーダッツを始末しようとする。
それなのに、ゆい自身が拓海を止めようとする。
そうなれば主題もより引き立つし、感情の動きも分かりやすく・描きやすく
なったろうなー、と思いました。
※ 岡目八目 ※
ただ、私は今こうして「結果」から作品を見ているから
あーだこうだ好き勝手言えるだけの話で、
平林さんと同じ立場になったときに自分が
この答えに初めから行きつける自信はありません。
それでもこうして記事にすることで
自分なりの納得のいく考えがまとまったのでスッキリしました。
以上です。
ーあ!そう言えば今回は絵コンテに3人もの名前が表示されてましたっけ。
だれも通しで物語を吟味する時間が無くて
この違和感を消す余裕が無かった、ってこともあったのかもしれませんね。